探していた、緑のライム

 あゆみの目の前には、ジンライムのグラスが置かれている。
あゆみは、さっきからじっとグラスをみつめたまま、ぼんやりしている。
カウンターの席について、ジンライムが運ばれてきてから、
あゆみは一口も手を付けていなかった。
「あの、よかったら、ぼくらと一緒に飲みませんか?」
 ぼんやりしているあゆみに、しばらく前から、あゆみの席からふたつばかり隣席で
飲んでいた二人組の男のうち、ひとりが声を掛けてきたのだ。
 男はいかにも遊び慣れています、という雰囲気が漂っていた。
よく見ればなかなかのハンサムだ。
職業は、モデルかなにかかも知れない。
女性誌のグアビアを飾っていても、不思議はないほどだ。
 あゆみは黙って、首を横に振った。
 男はキザに首をすくめると、連れの男のところへ帰っていった。
 冷房の効きすぎる店内の温度に、あゆみは肌寒さを感じた。
(そろそろ、かえろうか?)
 あゆみは、していたブレスレット風の時計に、目をやった。
 あゆみは、ジンライムのグラスを手に取った。
が、そのまま口を付けずに、コースターの上に戻した。
 ジンライムの氷は、溶けて無くなりかけていた。
 あゆみは、物憂いげに席を立つと、そのパブを後にした。

「喉が乾いたわ」
 ヨットのデッキで日光浴をしていたあゆみが、
サングラスをずらして舵を取っていた敏夫を振り返った。
「けっこう、いいプロポーションしてたんだ。
それともきょうは、ぼくの目が太陽にやられたのかな」
 敏夫は、あゆみの裸身に近いような水着姿を、まぶしそうに見ながら言った。
「いままで気が付かなかったのは、目が悪かったからよ。
きょうは、強い太陽の光で消毒されて、目が直ったのね。
それより、なーに?その嫌らしい目」
 と、あゆみが微笑みながら言った。
「男はみんなこんなもんさ」
 敏夫が笑った。笑顔の口元からこぼれる白い歯が、
たくましく日焼けした敏夫に、よく似合っていた。
「喉が乾いたわ。なにか飲物もらえる?」
「OK、ちょっと待ってろよ」
 しばらくして、細かく砕いた氷を満たしたグラスとジンの瓶を小脇に抱えて、
キャビンから敏夫が戻ってきた。
「もう!飲んべなんだから、昼間からお酒?」
 あゆみのあきれた声に、敏夫は笑ってうなずいた。
「まあ、見てろって」
 敏夫はグラスをあゆみの傍らに置くと、ジンの蓋を開けた。
それから、氷で満たされたグラスにジンを注いだ。
 そして、にこっと微笑むとパンツのポケットから、ライムを取り出して、
あゆみに示した。
 強い夏の日差しに照らされて、ライムの緑がすがすがしく、あゆみの眼に映った。
 敏夫は、ライムをふたつに切ると、ごつくてたくましい手の中に握った。
そして、グラスを引き寄せると豪快に、握りつぶした。
 ほのかに緑色をしたライムの透明な果汁が、
グラスの中にしぼり込まれていった。
「ほら」
 あっけに取られているあゆみに、敏夫がグラスを手渡した。
 手渡されたグラスは、冷たくて気持ち良かった。
「けっこう、いけるんだぜ」
 あゆみは、ちょっとためらったが、ゆっくりとグラスを口に運んだ。
 絞りたてのライムの香りと、
ちょっと強いジンの刺激が口のなかいっぱいに広がった。
「おいしい!」
「だろ」
 敏夫が笑った。
 さわやかな潮風が、あゆみの頬を撫で、長い髪をたなびかせた。
「いっけね。風が変わった」
 敏夫は、帆を立て直すために、グラスを置いて慌てて立ち上がった。
 あゆみは寝そべって、空を見上げた。
青い空には、夏の白い雲が気持ちよさそうに浮かんでいた。
 昨年の夏の出来事だった。

 それから数カ月後、あゆみと敏夫は、つまらない行き違いから、別れてしまった。
 そして、また夏がきた。
 最近、夏になってから特に、あゆみは寝つかれないことが多かった。
そして、決まったようにジンライムが飲みたくなるのだ。
 だから、ふらふらと夜の街にでかけてゆく。
そして、適当なパブを見つけてはジンライムを注文した。
しかし、あゆみは、いつもジンライムに手を付けずに帰った。
 ジンライムを飲みに出かけるのに、それは奇妙なことだった。
ジンライムを前にすると、あゆみは、急に飲みたくなくなってしまうのだ。
 あゆみは、そのことを奇妙に思っていた。
がしかし、答は意外に簡単なことかも知れない。
こういうことは、なかなか本人には分からないのかも‥‥‥

 今夜も、あゆみはジンライムを求めて、一軒のパブのドアを入っていった。
 あまり流行らない店らしく、薄暗い店内に客の姿はほとんど無かった。
ただ、酔いつぶれたらしい客が、カウンターの隅で座ったまま、うつ伏せに寝ているだけだっ
た。
 店内には、スローテンポのジャズが流れていた。
古いレコードらしく、時折ぱちぱちと、レコード特有のノイズがはいっていた。
CDに慣れてしまった耳には、ノイズが心地よく感じられるから不思議だ。
 あゆみは、その酔いつぶれた客を避けて、反対側のカウンター席に腰掛けた。
「いらっしゃい。なんにしましょうか?」
 中年の感じのいいバーテンが、あゆみに注文を聞いた。
バーテンの声は、低く静かなトーンだった。
「ジンライムを」「ジンライム!」
 寝ていた客が、自分が注文を聞かれたものと思ったのだろう、
あゆみと同時にオーダーを口にしたのだ。
 バーテンがあきれた顔で、その客の方を振り返った。
その客は、どうやら眼が覚めたようだ。
普通に起きあがっている。
しかし、まだ眼はうつろだ。
 あゆみは、その客がおかしく思えたので、
微笑みながらなにげなく、声の主に目線を移した。
 あゆみの顔から笑みが消えた。
「敏さん、きょうは、そのくらいにしておきなさいよ」
 と、あゆみのジンライムを作りながら、バーテンが言った。
 酔っぱらいは、敏夫だったのだ。
 あゆみと、敏夫の視線が合った。
「‥‥‥」
「‥‥‥」
「さあ、どうぞ」
 というバーテンの優しそうな声と共に、あゆみの前に、
ジンライムのグラスが置かれた。
 夏の終わりの出来事だった。