さ・よ・う・な・ら

その日、私は山の手線に乗っていた。残業で遅くなり、疲れた身体を引きずるよう
にして帰宅の途についていたのだ。三十を過ぎて会社の中堅となってからは、何かと
忙しくて帰宅時間が、遅くなってしまうのだ。
 だから、いま世間で騒がれるようになった、三十代や四十代の独身男性が増加する
のが、良く分かる。なにしろ、仕事が忙しくて結婚にまで、頭がまわらないのだ。か
くいう私も、そのひとりなのだが、私の場合は単に面倒くさいので、結婚しないだけ
なのだが‥‥‥
 時刻は夜十時すこし過ぎた頃だ。電車の乗客はあまり多くなく、車内は閑散として
いた。会社が終わって少し遊んだり、残業帰りすると帰りは十時くらい。そして、
ちょっと頑張って遊んだ人達は、十一時ぐらいに帰宅する、だから、この時刻は乗客
が、少ないことが多いようだ。
 このところ、蒸し暑い日が続いていた。きょうも、陽が落ちたと言うのに、一向に
気温が下がらなかった。
 私は流れ落ちる汗を拭った。この電車は、冷房があまり効かないようだ。
 田町から、ひとりの女性が乗り込んできた。年齢は、20才ぐらいだろうか。どう
見ても普通の娘だったが、その娘には私の注意を引きつけるものがあった。
 その娘は、最近の女の子からすると、かなり質素な服装だった。しかし、なにか身
体から出る‥‥そう、オーラのようなエネルギーを発しているように、私には思われ
た。
 日本人ではないようだ。私は、そう直感した。
 私は最近の女の子に、そのようなエネルギーを感じないからだ。確かに、元気な女
の子はたくさん知っている。しかし、彼女から感じるような(真摯な生活感からくる
エネルギーとでも言ったらよいのだろうか)エネルギーを、日本人の女の子から感じ
ることが少ないない。これは、私の勝手な、思い込みなのかも知れないが‥‥‥
 とまれ、その娘は、私の前の席に座ると、なにかのテキストをバッグから取り出し
て、かなり熱心に勉強をはじめた。
 やがて、電車は品川の駅に着いた。
 ドアが開き、二十才ぐらいのカップルが乗り込んでくると、その娘の隣に腰掛け
た。
 乗り込んできたカップルの女の子が、横を向いて彼氏らしい男の子と、大声で話は
じめた。おまけに、その娘の髪が長いので、横を向いて隣の彼氏と話すとき、隣にい
る先ほどの彼女の目前を、長い髪がよぎっていた。
 彼女は、そのことで気が散って、勉強しずらそうにしていた。
 私は、彼女のために注意しようと思ったが、生来気が弱いもので、ただ、そのカッ
プルをにらみつけるのが、精いっぱいだった。
 外国からきて精いっぱい勉強している子がいるのに、遊び帰りらしい日本人のカッ
プルが邪魔してると思うと、何となく腹立たしかったからだ。
 日本人として恥ずかしい、と思ったのも事実だが、いつのまにか彼女に感情移入し
ている自分を発見して、私は苦笑いした。
 そんな事で、私がカップルをにらんでいるとき、勉強していた彼女が、私に微笑み
かけてきた。
 私は照れ笑いで、それに答えた。
 自分の心を、見すかされたような気がして、なんだか恥ずかしい気持ちになったか
らだ。
 私が見ていたカップルは、私に全く気付かなかったのだが、彼女は私がカップルを
見てイライラしているのに、気付いたようなのだ。
 そういう理由で彼女は、微笑みかけてきたのだろう。
 でも、私はなんとなく照れくさくて、持っていた雑誌に視線を落とした。私の名誉
の為につけ加えるが、私は沢山と言うほどではないにしろ、それなりの女性経験はあ
るつもりだ。だから、今日の私は、どうにかしているとしか、考えようがない。私
は、疲れているのだろうか?
 そうする内にも、電車は夜の街を駆けていった。暗闇の中に、照明によって浮き出
るように見える建物が、車窓を通り過ぎていった。
 彼女は、恵比寿駅に近くなると立ち上がってドアの所に歩み寄った。
 ちょうど、私が座る真横に彼女が立っている形になった。
 私は、意味もなく?緊張した。まるで、少年の時の初恋の女性に、逢っているとき
の気分だった。
 三十男がいい歳をして、と思うと自分の事ながら、笑いがこみ上げてきた。
 良くも、悪くも、その事が、私が少年では無い事を証明していた。
 私は笑いをこらえながら、なにげなく傍らに立っている彼女の方に視線をうつし
た。
 彼女は、私を見ていたようで、ふたりは視線が会った。
 微笑んだ彼女の切れ長の目が、印象的だった。
 彼女は、まっすぐに私を見ていた。
 電車が恵比寿駅について、ドアが開いた。
 彼女は降りる間際に、一瞬ためらってから、ひとこと、
 「さ・よ・う・な・ら」
 と、たどたどしい日本語で私に言った。
 その時の彼女の笑顔は、とても素敵だった。
 瞬間、私はどぎまぎしてしまった。いましがた、自分が自分自身に笑ったのも忘
れ、少年になったように、はにかんでいたのだ。
 「さよなら」
 と、ようやくの思いで彼女に答えるのがやっとだった。まるで、蚊の鳴くような声
だっただろう。
 正直な話、本気で舞い上がっていたので、自分でもどんな声を出したのか、分から
ないほどなのだ。
 電車のドアが閉まった。
気が付くと私は、ホームを歩いてゆく彼女に、子供のように手を振っていた。そん
な私を見る周囲の怪訝そうな目は、全く気にならなかった。
やがて電車は、いつもと同じように発車した。
 私には、車窓から見える街の灯が、いつもより明るく感じられた。
 私にとっては、「真夏の夜の夢」のような出来事だった。