風と香りの中で 70

澄江は、2人を見送ると一人マンションに戻り、
冷たい風を浴びながら時々暗い辺りを見回しながら綺麗な足取りで地面をしっかり踏みしめていた。

暫くすると、背後に妙な足音が付いて来るのに気が付くと、足早になった。
「誰やろ?もしかして・・・。」そお思うと、全身が寒さの中で、なおのこと寒さを感じた。

手が震える、途中の細い路地に帰る方向と別の道に変更して、後ろから来るものを巻くことを考えた。
「ふー!」と溜息を吐いて「思い過ごしやわ」と急いで戻った。

マンションの前まで来ると其の安心感で、一度立ち止まり、後ろを振り返った。
その時、澄江は絶望の淵に落ちていくような衝撃を受けたのだ。

「やっと、見つけたで」男は、はにかみながら澄江に近付いてきた。
澄江は、足がすくんで動けなかったが、マンションの方に振り返り歩き出した処を男は、すばやく前に立ちふさがった。

「なんで?逃げるんや、俺、澄江の事愛してるんやで、好きなんやほんま、
いなくなってっから俺には澄江しかいないと気付いてズート寂しくて・・・」
男は、澄江の心を揺さぶろうとまったくの噓でもなかったが、自分にとっては都合のいい澄江が必要だった。

「何、ゆうてんね、愛してるなんて、よおいわんわ好きなら何で、うちに売春させるんや・・・。」
澄江は、2度とこんなしょうもない男とは関わりたくもなかった。

何とか抵抗して相手が諦めてくれるように思ったが、はい!判りましたと帰っていくような男でもなかった。

「金のためや、2人が生きていくために仕方なかったんや」
「あほか!、ほな何であんたが、働いてくれへんのや、
うちが、好きで売りしてるとでも思うとったん、そのお金で他の女と遊んどるってどないやん、
けたくそ悪いわ!100年の愛も醒めてしまうわ!」
澄江は、思いの全てをぶつけ、とにかくその男、黒田洋平を追い返そうとした。

「そんなに、ほたえなって、あの時は、悪かったと思うとるんや、
澄江が、いいひんくなってな、気付いたんや、堪忍してや、今度は2人で幸せを・・・。」
と黒田の言葉を最後まで聞かずに
「もう、うちにかまわんといてや」そお言うと澄江は、黒田を横切ってマンションに行こうとした。

当然そんな簡単に引下がる訳もなく黒田は、
「まてや!」澄江の腕を掴んで引き寄せると抱きしめた「やめや!いいかげん、いつまでも・・・。」

澄江は、今にも泣き出しそうなくらいの悲しみに襲われた。
それは、どうしようもない男を愛した自分と、どうしようもない男の哀れさが、澄江の悲しみになっていた。

もう、あかん、ほんま自分が自分でなくなって行った過去を思い浮かべると、
黒田を受け入れる訳にもいけないとの強い決心が、黒田を押しのけた。

「警察呼ぶよ!」澄江の、その一言が黒田に焦燥感を与え、顔色が変わると眉間に皺を寄せ、
今にも暴力を振るう様子を、澄江は、黒田の顔を見ただけで判った。

が、黒田は「今日は、エエわ!、又来るさかい考え直しておいてや、ほんまに、ほんまに澄江しかいいへんのや」
と言って駅の方に向かって歩いて行くと、澄江は、その場にへたり込んだ、
次第に溢れ出る涙は逃れられないかもしれない絶望からの深い悲しみの涙だった。

人を愛して愛した相手によとって決められてしまう人生が、幸 不幸になるなら人とは、
悲しい生き物なんだよねと、澄江は思っただろう。

そして、その2人のやり取りを、近くの茂みから静かに見守っていた、
黒い影は、音も立てずにその場を離れ、駅の方角に暗い闇の中に消えていった。

まだ、冷たい風は、澄江の辺りで強く吹き抜けると天高く舞い上がって行った。