グッドモーニング

「こんな日に働いているのは、ぼくと真由美さんぐらいなもんだ」
「そうかもね」
 と言って、真由美さんが微笑んだ。
 世間のみんなは夏休みだというのに、ぼくは仕事が忙しくて、どうしても休みが取
れなくなってしまったのだ。
 ぼくはやっと仕事を終え、真由美さんのやっているパブレストランで食事をしてい
た。ここはテーブルがふたつに、カウンター席が五つほどの小さな店だった。そし
て、店の中に客は、ぼくだけだった。
 いつもなら、美人の真由美さん目当てに、常連の客が絶えないこの店なのだが、さ
すがに夏休み真っ盛りのきょうは、この店に誰もやってこない。
 真由美さんはひとりで、このお店を切り回しているので、当然店の中には、ぼくと
真由美さんだけだ。
 こんな日にやってこないなんて、真由美さん目当ての連中は馬鹿なやつらだ。
 たまには、仕事で休みが無くなるのも、いいことがあるものだ。しっかり働いてい
るのだから、このくらいのことはあってもいいだろう。ぼくはひとり、ほくそ笑ん
だ。
「なにか、いいことでもあったの?」
 と、真由美さんがいった。
 ギクッ!
「いや、どうして、休まないの?」
 ぼくは、内心を悟られまいと話題を換えた。
「どこ行っても、混んでるでしょ。だから、みんなが働いているときに、休ませても
らおうと思って」
「ところで、お兄さんは?」
「どこかに遊びに行くって言ってたから、いまごろ温泉ででも行って、のんびりして
るんじゃないかしら」
ほんとうは、この店、真由美さんのお兄さんが始めたものだ。ひとのいいお兄さん
は、商売に不向きで、常連になると見境無くただで酒を振る舞ってしまうので、この
店はつぶれる寸前だった。それを当時、OLをしていた真由美さんが、この店を引き
取ったのだ。
 ぼくは、お兄さんの代から、この店の常連だった。
今ではこの店は、真由美さんの努力によって結構繁盛していた。もっとも、美人で
気だてが良く、独身の真由美さん目当ての、男達の功労があったのは言うまでもな
い。ぼくも、そのなかのひとりには、違いないのだが‥‥‥
「ところで、この間のお見合いの話、どうなったの?」
 ぼくは、おそるおそる真由美さんにたづねた。
 この間、みんなには内緒、ということで真由美さんから聞いたのだ。以来、ぼくは
ちょっと落ち着かない気持ちが、続いていた。真由美さんのお見合いの結果は、聞か
なくてもいつかわかるときがくるはずだが、ぼくには待ちきれなかった。
「ああ、あの人ねえ、笑っちゃうのよ。わたしのお母さんにばかり気を使ってるの。
わたしがいないときばかり、家に行ってお母さんの機嫌取ってるらしいのよ」
「将を射んとすれば、まず馬を射よか。なかなか頑張るね。それで?」
 と言ったぼくの顔は、多少引き吊っていたかも知れない。
「断ることに決めたわ」
「それがいいよ。そんな奴、ろくな奴じゃ無い」
 ほっと、一安心だ。
「でも、結婚するかも知れない」
「そいつと!」
 ぼくは、とんきょうな声を上げた。
「ううん、別の人からもプロポーズされてるの」
「この店は?この店はどうするの?」
「そうなったら、やめることになると思うわ」
「‥‥‥そう」
 ぼくは、黙々と目前の料理を平らげた。
「ぼくが帰れば、店を閉められるだろうから、帰るね。いくら?」
 ぼくは、闇い気分で帰ろうとした。

「いいのよ。気を使ってくれなくても。商売なんだから」
 といって、真由美さんは微笑んだ。いつものようにいい笑顔だった。でもぼくは、
うつろいだ印象をもった。
 そうだ、真由美さんがいつも優しいのは、ビジネスだからなんだ。それで
も、‥‥‥
「朝まで飲んでも?」
 ぼくは力なくいった。
 真由美さんはうなずいた。
「じゃあ、朝まで飲みあかそう!真由美さんも、こっちで一緒に飲もうよ。他に客は
いないんだしさ」
「じゃあ、他にお客さんがくるまでね」
 結局、その日は誰も客は、この店には来なかった。
 ぼくは、学生時代のように記憶を無くすほど飲んだ。やけ酒だ。

 気が付くと、ぼくはカウンターにつっぷしたまま、座りながら眠ってしまったらし
い。眼をこすりながら、起きあがった。
 毛布がぽとりと、ぼくの足元に落ちた。どうやら、真由美さんが掛けてくれた物ら
しい。
 ぼくは、のろのろと店の中を見回した。
「うっ!」
 ぼくは、眼を手で覆った。
 店のカーテンが開け放たれて、朝日が差し込んでいた。
 昨晩、かなりのむちゃ飲みをしたところまでは、憶えているのだが、その後のこと
が思い出せなかった。
 ばくはひとこと、真由美さんに詫びようと、店内を見回した。
 狭い店内に、真由美さんの姿はなかった。
 ぼくは、しばらくぼうっとしたまま、カウンターの席でじっとしていた。昨晩の酒
のせいで、頭が痛かった。ひどい二日酔いだ。
 店のドアが開く音が聞こえた。
 ぼくは反射的にドアの方をみた。
 そこには、真由美さんが買い物袋を持って立っていた。
「起きたのね」
 ぼくはまぶしさに目を細めた。単に光がまぶしかったから、だけではない。真由美
さんの笑顔は、朝日を浴びて輝いて見えた。
「ちょっと、待っててね。いま、おいしいお味噌汁作るから」
 真由美さんは、カウンターのなかに入って、買い物袋から色々な材料を取り出す
と、味噌汁を作り始めた。
「ごめんね。なんだかだいぶ、迷惑かけちゃったみたいで‥‥‥」
 ぼくは、穴があったら入りたい気分だった。
「そうね。きのうはびっくりしたわ」
 真由美さんは、手を動かしながら言った。
「あの、きのう、なにか変なこと言わなかった?」
 ずいぶん酔っていたので、それが心配だった。
「変なことは、いわなかったわよ。でも‥‥‥」
「でも?」
「まさか、忘れたとは言わせないわよ」
 真由美さんは、手を止めて、ぼくの方に包丁を突きだした。でも、眼は笑ってい
た。
「なんか、悪いことした?」
「憶えてないのね」
 ぼくは、うなずいた。
「きょうは思い出すまで、帰さないわよ」
「きょうも仕事があるんだけど‥‥‥」
 ぼくは間の抜けたことをいった。まだ、半分は寝ぼけているのだ。
「だから?!」
 と言って、真由美さんは、ぼくの眼の前にぐっと包丁を突きだした。
「じゃあ、なにかヒント」
「盗んだのよ」
「盗んだぁ!手癖は、悪くないはずなんだけど‥‥‥」
 ぼくの目は完全に醒めた。
「いいえ、かなり悪いわ」
 と言って、真由美さんは笑った。
 開け放たれた店の窓から、まだ暑くなるまえの早朝の風が、吹き込んできた。すが
すがしい風だった。
 でもぼくには、きょうがかなり熱い日になることが、予想できた。
 だけど、ぼくにとっては、悪い日とも言えないかも知れない‥‥‥。